そこからフェリーで渡ったところに弓削島という島がある
そこに母の実家がある 今はもう誰も住んでいない
因島病院で生まれた僕は阿部家(母の旧姓)の長女の長男として
爺ちゃん婆ちゃんにとっての初孫としてその島では重宝されたと聞いている
(残念ながら本人は一番可愛がられているいる時期の記憶に乏しい)
物心ついてからも休みとあらば トヨタ カローラに乗って神戸から
行ったものだ 夏は海水浴 山登り 釣りに 盆踊り 冬はみかん狩りに
餅つき 等々 遊びに事欠くことはなかった
まんじゅう山と呼ばれる山にあるアスレチック 今は手入れもされておらず
とんだサバイバルマウンテンである
よく遊んだ海辺の体育館の下 満潮になると海水が膝くらいまでになり
岩場の魚をよく穫った
そんな思い出が詰まった島ではあるが 僕は年々帰らなくなり
東京に出て来てからは葬式の時にしか行く事はなくなっていた
そんな島に今年いろんな思いが重なって
葬式以来9年振りに帰ったのである
僕は基本的にノスタルジーを持ち込みを少量にしている
昔は良かったなどと昔話に花を咲かせる事は
時に今の世界(自分)を曇らせてしまうから
今をしっかり今の視点で見つめたいのである
(とは言えという部分も場の空気や話の流れでどうしても
あるのだが...)
久しぶりにお会いしたスミコおばさん(84)やキヨちゃん(70)や
ヤッちゃん(?)から見たら 僕はホントに子供の頃の面影が
ないらしく 名乗らなければ誰かわからないようだ
スミコおばさんはカラダは衰えてきてるようだが
頭はしっりしていて 言葉もはっきりしている
弟がエビを食べて「まいうー」と言う
スミコおばさんも真似して「まいうー」って言う
いつもまで若くてかわいらしいとこが僕は好きである
緑の服を着ているのがスミコおばさん
キヨちゃんは旦那も亡くなり子供も皆 都会へ出て行ってしまったので
一人で畑をやったり 掃除のアルバイトをやったりして暮らしている
「私は自由じゃけ自分で決めて自分でやるしかないんよ ほでから毎日忙しんよ」
というセリフがとても印象的で耳の片隅でずっと響いている
キヨちゃんは長い間 朝の新聞配達のバイトもしてたのだが 山の方の家を配った
時にイノシシに出くわし 死んだら何にもならんとその日に辞めさしてくれーっ
て言って辞めた話がとてもおもしろかった(瀬戸内弁がまた味があっていいのである)
1日2日とそんな島を散歩したり墓参りに行ったり
美味しいもの食べたりとのんびりとまでは行かないが
穏やかに過ごした 今回トキロックも一緒に来てくれたので
何かと手伝ってくれて母も父も助かったようだ
両親の老いに触れ ダウン症の弟に触れ
今は好き勝手やれてるが...という事もどうしても考えてしまう
が もうしばらくは夢中で走らせて下さい
そんな2014年のお正月であります